ジャンジャン横丁を北側に出たあたりに、創業85年以上を誇る喫茶「タマイチ」があります。
注文したカレーライスを食べならが、マスターの東田君と雑談してました。
東田君も私も共通してるのは、生まれも育ちも新世界であり、親のあとを継いでお店をしていることです。
私は東田君より5歳年上ですが、若い頃、東田君から、ある企画に誘われたことがありました。
今から30年以上前、おそらく私が26〜27歳、東田君が21〜22歳ぐらいの時だったように思います。
企画というのは、月刊「SENBA(せんば)」という雑誌で、新世界の若手を集めて座談会をする設定での取材でした。
月刊「SENBA」は、大阪の文化や魅力、歴史を中心にした内容の記事が多く、かなり前に廃刊になった雑誌です。
「づぼやら」の座敷で、フグを食べながらの座談会でした。
参加したのは、東田君、私、そして、今は通天閣の社長でもある西上さん。
進行をされてたのは、当時、エッセイスト・タレント・噺家として活躍されていた和多田勝さんでした。
当時の新世界は、日雇い労働者をはじめ、中高年のおっちゃんが遊ぶ街であり、ガラが悪い、危ない、汚い、まさに3Kが揃った街でした。
月刊「SENBA」では、大阪の歴史文化という側面から新世界についても度々、掲載していたようですが、「東田君がもっと新世界について紹介してほしい」と、月刊「SENBA」の編集部に応募をして、座談会形式の取材が実現したそうです。
若干21〜22歳で、真剣に新世界のことを考え、魅力を多くの人に知ってもらおうと動いていた東田君に引っ張られるように、私も座談会に参加した記憶があります。
私は、今でこそ、新世界の活性化を進める活動をしてますが、当時は、新世界にあまり愛着もなく、ミナミやアメ村に憧れていた頃でした。
座談会で、新世界の魅力について質問されても、ほとんど答えになってなかったように思います。
学生時代、新世界に住んでるというだけで、友人からも卑下された苦い思い出があり、地元の人は多かれ少なかれ、そんな経験をしてきたと思います。
当時の新世界から約30年で、今のような大阪を代表する観光地として新世界が変貌を遂げたことには、私も東田君も地元に居ながら、驚きもあり、嬉しさもあります。
いろんな時代をくぐり抜け、ようやく今の新世界が存在すること、昔の新世界のリアル感を若い世代の人達に語り伝えていくことも必要であり、私達しかできないことかもしれません。
新世界には新しいお店が増え、若きオーナーさんも増え、新世界に愛着を持って仕事をしている方もたくさんおられます。
これからの新世界を支えていくべき若きオーナーさん達が、これからも新世界に愛着を持って仕事ができる街に、ますます発展していくことを期待しています。
月刊「SENBA」は、図書館で探してたら見つかったという話を聞いたことがあります。
時間のある時にでも探してみたいと思います。
★Twitter@shinsekaizyoho
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