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坂田三吉の偉業を称え、通天閣下に王将碑が建立されてます☆

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通天閣の足元にある王将碑、これは将棋の名人、坂田三吉翁の偉業を称え、昭和44年10月、新世界町会連合会により建立されたものです。

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坂田三吉は大阪府堺市の生まれ。

生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚えました。

1886年(明治19年)ごろ、新世界からすぐ近く、、通天閣が見える場所(西成区太子町あたり)に住んでいたらしく、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公をしていました。

町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていました。
しかし、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれています。

1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から坂田三吉に、名人・王将の称号が贈られました。

村田英雄の歌『王将』の歌詞の中にも通天閣が登場したり、坂田三吉を主人公にした映画『王将』には初代通天閣、ライオン歯磨の広告も映っています。

坂田三吉と通天閣、人情の街「新世界」の状況が色濃く表現された歌であり映画です。

昭和40年代には新世界には4~5軒の将棋センタ-があり、将棋は庶民の遊びとしても根付いてました。




長年に渡り、新世界のシンボルのひとつとして、親しまれてきた王将碑であり、地元の人達にとっては、思い入れのあるスポットになっています。



私達の年代では、将棋をしない人でも坂田三吉という名前ぐらいは知ってるでしょう。
しかし、最近では新世界を訪れる観光客の世代も若くなり、坂田三吉の名前すら聞いたことがないという人が増えています。


新世界周辺を舞台にしたNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」を知らない世代が増えていることを思うと、それもこれも、時代の流れということになりますね。



先日、ある方と待ち合わせをする際、「通天閣下の王将碑前」と場所を伝えましたが、いっこうに現れず、結局、通天閣から約80mの場所にある「大阪王将」の前におられました。


新世界に初めて訪れる人達、また、若い世代の人達にとって、王将碑に対する認知度は低いようです。



年々、新世界の町並みは変わり、若い世代の価値観に新世界が染まり行く中、新世界に根付いてきた文化をこれからも継承していくことも重要であり、王将碑は人情の街『新世界』のシンボルであることはこれからも変わらないでしょう。

王将碑の碑文には、坂田三吉の勝負に対する姿勢と生きざま、大阪人のど根性の偉大さが表されているところから、将来的には、王将碑を勝負のパワ-スポットとして、若い世代の方々を含め多くの方に親しんでもらえるよう育てていきたいと考えてます。

最後に、王将碑に刻まれてある碑文を掲載しときます。

[碑文]
 王将坂田三吉は明治3年6月堺市に生まれる。
 幼少より将棋一筋に見きわめめぐまれた天分と努力は世の人をして鬼才といわしむ。
 性温厚にして妻小春とともに相扶け貧困とすべての逆境を克服する。
 昭和21年7月(77才)大阪市東住吉区に没す。
 同30年10月生前の偉業をたたえられて日本将棋連盟より棋道最高の名人位 王将位を追贈される。
 翁によって大阪人の土根性の偉大さをしらしめたる功績は私たちの追慕しやまざるところここ由縁のち通天閣下にこれを顕彰する。

 昭和44年10月吉日
 王将碑建立有志の会
 氏野 寒木 書 


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